窓の外

入院が長引いてくると、外の空気がとても気になる。リハビリ病院への入院当時、ベッド際の大窓から見える丘の斜面の樹々は葉を残し所々に建つ人家を隠していた。それがだんだんと葉を落として家々が見えてくる。しまいには大きなイチョウの木の黄色い葉が落ちて、大きな屋根が現れた。ああ、あれはお寺さんかしら? 家と家を結んで道があるんだろうなあ。そこには小さく人の動く気配すら感じられる。毎日毎日見ていても、その景色はしっかりと晩秋から冬へ、そして春に変わって行く様を見せてくれる。遠くに白梅の香りを感じ、コブシの花影を見て春の訪れに快哉を叫ぶ。冷たい空気に顔をさらすことも無く、着るものの調整も必要ないような温室の中で生活をしていると、無言であってもその表情が私の心を揺すぶる。
 もう一方の窓は、私のトレーニングスペースを自然の光で満たしてくれていた。窓の外にあるベランダの目隠しは下の方の景色を隠していたが、この大きな窓からは遠くの空の見晴らしも良い。片手の小山の中腹に建ち並ぶ家のオレンジ色の屋根屋根は遠目ゆえか、行ったこともない南欧の風景を思い起こさせる。ある時、未明に通り過ぎた低気圧が残して行った雲々に朝日が照り返して壮大な画像を創り出していた。蒼い空に浮かぶ暗い灰色の雲、白いふわふわ雲、茜色に変わっていく雲。上空はまだ風が強いのだろうか、それらの雲が形を変えながら広い空を駆けまわる様は見ていても飽きない。がやはりこの窓からの一番の贈り物は、富士山の姿かもしれない。丹沢山系の向うに小さな台形のシルエットを見た時、あれは富士山なんだろうかと首を傾げた。翌朝、白み始めた山の端が、朝日に照り映えてうす紅色の朝焼け空に変わる中、富士山らしからぬその白い台形も、ひとときうす紅色に染まり、誇らしげに存在していた。この日以来、私は毎日富士山を確認するようになった。
夕暮れの窓景色も又見ごたえがある。なにしろここからは沈んで行く太陽が見えるのだから。まして3ヶ月も見続けていると、陽の沈む位置がだんだんと移って行くことまでもが面白かった。真っ赤な夕陽の落ちて行く様を見るのは楽しい。けれどその姿を、消すまで眼も向けられないように光り輝いている夕陽の方が多かった。だから、山並みの向うに陽が落ちたばかりの空が暮れていく景色をよく眺めた。太陽の残照をあびて朱色に染まった空が、大山から丹沢の山並みを浮かび上がらせ、徐々に暗闇の中へと山々を引きずり込んで行く。又、西の空に雲がたなびく夕暮れもひとしおの興をそえる。夕陽と雲の織りなす風情は、多様な彩色と、風景を創りだす。私の心は窓の外にある自然への憧憬でいっぱいになる。