たまに

横になって、思い切り手足を伸ばす。
なんと気持ちのよいことか。今の私にとってはこんなことでも、心の安らぐひと時。不具合な事などは何も感じない。


けれども毎日の生活の中で、辛いことは沢山。
そして、たまに「もう終りにしたいよ」と現状から逃げだしたくなる。


悲しみ、嫌な事、疲労感、倦怠感、滅入ってしまうような様々な重苦しい思いが、黒い固まりとなって瞬間的に私を包む。


日々、手助けなしには暮らしていけないなんて辛い。まともに動けない悲しみ、そこから派生する悩み、一生懸命に動かなければならないことに疲れ、気力もそがれる。こんな生活を続けるのは疲れたよ。


たまに押し寄せるこうした気重い感情。


これって、自分では病気をクールに認めて、諦めているつもりだけれど、実際には現実を受け止めきれていないんだ。まあ仕方はないけれど・・・


でもね、私って基本的には逞しい。単純で鈍感。これは生まれつきというより、長い人生の中で自分を守るため身につけた知恵なのだろう。
それが今、私を助けてくれる。


一晩眠れば気持ちは入れ替わり、夢中になれる事に集中をすれば、頭も切り替わる。わだかまりを持ち続けることもない。だから時たま襲ってくるこの奈落の世界も、長引くこともなく薄れていく。


けれど決して消え去り無くなるものでもなく、心の隅に隠れて、隙を狙って顔を出す。そしてこれからも又私を悩ます。


いつか時が来ればすべてが終わる。それまで只々、穏やかに過ごしたい。

手首

最近、手首に痛みが走る。


車椅子からベットに移乗する為、ベットの手すりを掴んだ右手に体重をかけた時、手首に痛みが走った。


立位体操をする際、平行棒を掴んで爪先立ちをしたら、手首が痛んだ。


今まで手は問題ないと思っていたけれど、それは腕の力のことであって、手首も関係するなどとは思いもよらなかった。


また、絶えず痛いわけでもなく、腫れているわけでもない。置いた手への体重のかかり具合で、痛みが出たり出なかったり。だから今はまだ軽い腱鞘炎なのかもしれない。


けれど、痛みが強くなったらと思うと怖い。酷くなれば動きも制限される。そしてだんだんと手が使えなくなったらどうなるのかしら、と考え過ぎてしまう。


大丈夫、大丈夫、これ以上痛くならないように、手首をサポーターで温めて、気をつけて使い、様子をみていきましょう。

月に一度

購入してしばらくの間は、毎日のようにチャレンジしていたルービックキューブも、今では月に一回、手にするだけになった。
毎日回していても飽きてしまうし、使わないのも宝のもち腐れ。たまにするのは楽しい。


いっとき、油切れでスムーズに回れないキューブがあった。何とかしたい。で考えたのが手元にあったアロマオイルのスプレー。キューブを回しながら振りかけると、いい香りが漂い、上手く潤滑油の役目を果たしてくれた。(ホッ)助かった、これで使いかっても良くなる。人に頼らず自分で解決できたことって嬉しい。


2×2、3×3は自力で仕上がるのだけれど、それ以外の最後の詰めは、アンチョコを参考にしないと出来ない。アンチョコは手作りなので使いやすいが、それでも7×7などは、その活用に頭を悩ます。色々と考えて完成をすると、その達成感は大きい。


けれどいつか、そのアンチョコも使いこなせなくなり、作業が面倒くさくなって、放置されたままになる日が来るのかもしれない。



服薬ゼリー

現在病院で処方されている飲み薬は、朝晩に一錠のタルチレリンだけ。この薬は、小さいし崩れやすいので、飲みやすい。


それに加え、ちょっと欲を出して、老化に抵抗しようとサプリメントを利用している。こちらは小さなカプセル。飲みやすく作ってあるはずなのに、私はどうしても上手く呑み込めない。水だけが喉を通り過ぎていき、カプセルは口の奥に残り、喉を詰まらせそうになる。スムーズにいく時もあるけれど、いつも気持ちよく服用したいので、服薬ゼリーを利用することにした。


それでも、時にはカプセルが喉に引っかかり、慌ててゼリーを追加する。


私のちっぽけな残りの人生を、少しでも豊かに過ごしたい。そんな思いでサプリにしがみ付く。今更とも考えるが、サプリの効果も信じたい。

打撲

先日、わき腹を手すりに打ち付けた。


玄関で室内用から外用車椅子に乗り移る時、体がふらついた。やり慣れた動作だったから注意力が薄れていたようだ。前わき腹、肋骨のあたりを手すりにぶつけた。瞬間強い痛みが走ったが、日中には痛みを忘れる程度だった。


けれど夜になって痛みが出てきた。腫れているわけではなく、内出血もしていないのに、咳をしたり、体の動かし方によって痛む。こんな鈍痛が一週間続いた。


大反省。どんな動きであろうとも、気持ちを集中して行わなければ危ない。
今回程度の痛みならば問題もないが、大事に至る可能性だってある。


注意をしていてもいつか、自分で出来なくなる時が来るかもしれないのだ。僅かばかりの一人で出来る動作は大切にしたい。