姉御とマダム

姉御は13才の時、満州から引き上げて来た。その2年後、まだ貧しい医療体制の中、大病をし左手に麻痺がでる。障害を持っての人生は甘いものではなかったであろう。そのせいか時たま彼女は突っ張った話し方をした。『アチキは・・・』それで私は心の中で彼女をアチキ姉御と命名した。ずけずけと人の心を傷つけるような発言もあるが、時には人生を達観した者の助言として聞こえる事もある。私など言おうにも言われぬ事も、彼女は御神託として的確に明言し笑わしてくれる。
歩行にも多少の障害が出ていた彼女は家の近くで転んで大腿部を骨折し、手術入院後、リハビリ病院に転院し現在に至る。日常はサークル歩行、療法士さんとは杖なし歩行を始めたところだ。お姉さんとその家族と生活しているので帰る家はある。がその場所が現在の彼女に生活しづらかったら、他の選択肢も考えるよう病院から助言を受け考え込んでいた。『姉さんとは気が合わん』といいながらも、二人の間には長年助け合って生きて来た絆が見えた。今までも障害を持つ彼女が生活できる環境が作られているし、今後も3世代で住むお姉さん家族は彼女を当然の事として受け入れてくれるだろう。

 若くして夫に先立たれたマダムには、広告代理店と3人の子供が残された。私の人生は小説になると彼女は言う。『ワタクシは社長でした』一流どころでの接待,著名人との付き合い、バブル全盛の時は会社も順調に運営され、子供たちも何不自由なく育ったようだ。何年前だろうか彼女は足の怪我をして、歩行器を使った歩行となる。バルブがはじけ銀行から貸し付けの返金を求められ、住み慣れた都心の屋敷を売り払い郊外に独り移り住む。足が悪く糖尿病でもある彼女は、配食を依頼し、お手伝いさんを頼み、掃除、洗濯、食事の支度などの世話を受け、週一度デイケアに通っていた。そんなある日彼女は室内で転び足を痛め病院に運ばれた。そこで大腸ガンが見つかり手術を受け、人工肛門という重荷を持ち続ける事になる。いろいろと事情のあっての事か、リハビリ病院の入院が3ヶ月を過ぎている一番の古手のようだった。私が入院当初の彼女はリハビリの意欲も薄く、よそ目にも無理だと思うのだが、ひたすら入院前の一人での生活に帰りたがっていた。周りの人がリハビリで改善され退院して行くのを目の当たりにしたり、彼女よりずっと年のいった人が頑張っている様子を見たり、出来る限り自立しなければ、一人での生活は無理ねと言う周りのおしゃべり等が、少しずつ彼女のやる気を引き出させたのではないか。時には我がままを言いながらも,歩行器で必死に歩く姿を見るようになった。